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リンパマッサージ&エステで心とカラダの気の流れを変えるサイト

私のご紹介♡

 

私のプロフィールページに来てくださってありがとうございます!

 

このページでは、

私が、どんな家族と、どんな影響を受けながら育ったのか
どんな生活を経てここにいるのか、

 

そして

どんな風にキヨのツボを始めたのか、
をお話ししたいと思います。

 

長いので・・・お好きなところからお読みください^^

 

京都府宇治市生まれ、滋賀県育ち

 

兵庫県尼崎市生まれの母と千葉出身の父が
大阪の会社で出会って結婚し、
3人姉妹の末っ子として私は生まれました。

 

京都府宇治市の小倉町で生まれて、
11ヶ月の時に
滋賀県の草津市に引っ越して来ました。

 

「草津」と言うと、いつも
「温泉があるところよね、いいわねえ〜」
と言われるのですが…それは

群・馬・県!笑

 

私の育った滋賀県草津市は、
びわ湖のある近江の南端、
東海道の宿場町だったところです。

 

昭和40年代は、
小さな会社からどんどん大企業に育つチャンスのあった、
勢いのある時代だったようで、父もいろいろな事業を起こしていました。

 

そんな理由で父は何回か転職をしたり、
いろんな場所で仕事をしていたので
姉妹3人とも見事に出生地が違います^^

 

そんな父は、

ある日、
また新しい仕事をすると言うので、
今まで勤務していた会社の送別会に参加していました。

 

最後のあいさつを終えて、

車を運転して帰った父が

とった行動とは。

 

お父さん、それあかんやろ

 

送別会のあったところは街中ではなかったので
あまり車の通りはありませんでした。

 

何を急いでいたのか
父は車の速度を、どんどん早めていったのです。

 

 

しばらくすると、
父よりスピードの遅い車が、前を走っているのに追いつきました。

 

もうすぐゆるい曲がり道。

 

あろうことか、

その曲がり道に入る前に、

 

父は、

前の車を追い越すために

 

対向車線に入ったのです。

 

父の目論見は完全に外れました。

 

元の車線に戻る間も無く、正面から、
大きなセメント車がものすごい勢いで、
父のセダンに突進して来ました。

 

・・・ここで、私の父の命は

 

絶たれました。

 

即死と診断されたためか、
母が病院に駆けつけるまでもなく
父は自宅に無言の帰宅をしました。

 

この時私は3歳だったので、帰って来た父をみても、

「亡くなっている」

ということは全くわかりませんでした。

 

ただ、

わりと端正な父の顔にキラキラがたくさんついてるのが、
すごく綺麗だなぁと思ってずっとみていたこと、

 

そして、その時の顔はすごく覚えています。

 

今になると、フロントガラスが割れて、父の顔に
刺さっていたのがキラキラしていたんですね。

 

ホラーですが、
インパクトのある思い出のおかげで、
父の顔を覚えているのかなぁ、と思います^^

 

母の奮闘

 

お通夜やお葬式の間、
私の母はわりと明るく気丈に振る舞っていました。

 

親戚のおじちゃんや、
いとこたちが来てくれて賑やかなので、
嬉しくて私もはしゃいでいたのですが・・・

 

1週間くらいたったある夜のことでした。

 

真新しいお仏壇に向かって、
母と祖母が小さい声で何かを話していました。

 

眠くなった私は、
お母さんに甘えに行こうとその部屋に入ろうとしたのですが、
なんとなく行きにくくて、
ふすまの影から行けるスキを伺っていました。

 

すると・・・

 

突然、母が座布団に突っ伏して、
大きな声を出して泣き始めたのです。

 

びっくりした私は
側に行くタイミングを失って、
ずっとふすまから動けないで状態で立っていました。

 

こんなに激しく泣いている母の姿を見たのは、
後にも先にもこの時…一回だけです。

 

この瞬間、
何かがこれから変わるんだな、
と子供心に実感したことを未だ鮮明に覚えています。

 

これも思い出すと、
映像として頭に焼き付いているシーン…

 

それからの母は、食堂のパート、保険屋さん、会社の事務職など
本当にいろいろな仕事についた後、

 

これでは3人の子供を養えない!!と思ったそうで、

 

美容室の経営をしていた母の姉(私の叔母さん)に
アドバイスを受けながら美容学校の通信教育で勉強し、
そして、美容室勤務という生活を始めました。

 

37歳で3人の子供を持つお母さんが、
この生活を始めるのは
とても勇気がいることだったと思いますが、
当時はこれしかない!と必死だったのだと思います。

 

当時のことを母に聞くと、

「あんまり大変だ、苦労だ、って思ったことはないねえ。
やって見たら、髪を触るのも肌の勉強をするのも、好きやったんやね。
ああ、一つ本当に苦労したことがあるわ。
中学生になってから、あんたたちの
お弁当を作るために朝起きること!」

ですって。  そっちですか、お母さん笑

 

女子ばかり3人なのに、
お弁当くらい自分たちで作ればよかったなあと反省。

 

4つ上の姉が高校生になった頃からは、
半々くらいで自分たちで作っていたかな・・・

 

母は、3年後に美容師の国家資格を取ってから、
自分の美容室と4軒のテラスハウス仕様のアパートを建てました。

 

その時銀行から借りたお金も、
私たち3人を育てながら返したのですから本当に大したもんです^^

 

以来、美容室経営を40年近く続けた母は、
最近はほぼ孫に美容室を譲ったようです。

 

すっかりメンズ美容室にリニューアルされた店内で、
母にやってほしいというお客さんだけを
自分のペースでのんびりやっていますね^^

 

祖父母が尼崎からやって来た!!

 

お話を少しもとに戻しまして・・・

 

父が亡くなった後、
働きに出ないといけなくなった母は、
3人の子供のお世話は1人では物理的に無理…

ということで、

すぐさま、母のお父さんである
尼崎のおじいちゃんに引っ越して来てくれるように頼みました。

 

優しいおじいちゃんはすぐに来てくれましたが、
一緒に呼んではいない(と母は言っていた^^;)
おばあちゃんまで一緒に来ました。

 

夫婦なので当然といえば当然なんですけどね。

 

今はもう亡くなっているおばあちゃんは、
当時ものすごく気の強い人で、しかも職業は霊媒師。

 

戦前戦後の時代に
6人の子供を抱えて生き抜いて来た、

いわゆるがばいばあちゃんです。

 

大阪界隈でお弟子さんが何人もいた、
かなりキャラの濃ゆい人でした。

 

毎日、こんな田舎ですることがないとか、
自分は連れてこられてかわいそうだとか、
愚痴か文句かお説教しか言いませんでした。

 

私のすぐ上の姉…またこれがすごく気が強かったので、
おばあちゃんとは口論が毎日絶えませんでした。

 

そのうち、
今度は穏やかなおじいちゃんが、
山田さんのとこに行ってくるわ!!

 

と元気に言って、

 

ここを尼崎のうちだと間違えて、
あるはずのない友達のうちに
毎日出かけるようになりました。

 

当然、道が違うのでたどり着くわけもなく、
母がいつも車で探し回っていた時に
私もくっついていたのを覚えています。

 

当時は【認知症】という言葉もなかったので、
病気という認識がなく、

「おじいちゃんボケてしもたなぁ」

 

と、まるでおじいちゃんの特徴のように受け止めていましたが、
母も祖母も、ほんとうに大変なことの連続だったと思います。

 

認知症-おじいちゃんがボケてしもた話   の記事はこちら

暗い中学生、高校デビュー

 

姉は2人とも、
中学時代はやんちゃ女子(ヤンキー)になり、

母は忙しい中によく学校に呼び出されて、
家でも姉たちをよく叱っていました。

 

放課後もやんちゃな先輩たちが
家に集って騒がしいし、

 

私はその反動で、
本や歌やデッサンにのめり込むインドア女子になり、

中原中也・芥川龍之介・夢野久作などを
読みふけっていました。

 

中3の春に美術の先生に、
京都に公立で面白い学校があるんだよ、と教えてもらい、
高校から美術を本格的に学べる学校があることを知りました。

 

よし、

私の周りの環境を変える、
絶好のチャンスだ!!と思いました。

 

何とか今の状況を変えたいと思った私は、
それから美術の先生の家まで、週1回、
デッサンと水彩画を勉強しに行きました。

 

当時は当たり前のように通っていましたが、、、

 

今から思えば、田舎とはいえ公立中学校の美術の先生が、
毎週末自分の時間とアトリエを提供してくださっていたのは
本当にありがたかったなぁと思います。

 

芝居の人生とスペイン

 

そして、
無事に京都の美術高校の彫刻科に入学して、
数ヶ月が経った頃のことでした。

 

愛読書だった「チケットぴあ」の情報誌の隅っこに、
面白い名前の劇団の案内が載っていました。

よく見ると、劇団員募集の文字も。

 

その劇団の公演会場は、
通っていた高校からそんなに離れていなかったので、
学校が終わった後、早速行ってみることにしました。

 

小さな小屋で、
ひな段のゴザに座ってお芝居をみたときは…

人は、全く違う人の人生を生きることが出来るんだ、
自分の中にあるものを、
台詞や動きに託すことが出来るんだ!

ものすごい衝撃を受けました。

 

そして即日入団し、
19歳までお芝居の世界にのめり込むことになります。

 

大阪に拠点を変えて劇団を作ったり、
オーディションを受けますがなかなかうまくいきません。

 

その時、

たまたま実家に帰っていた時に掛かってきた1本の電話。

 

それは、
美術高校の同じ彫刻科で勉強したり
文化祭で盛り上がった同級生のゆう君でした。

 

「今東京に住んでるから、一回遊びに来おへんか?」と言われて、
またもや速攻で東京に行きました。

 

美術高校に行っていた友人達は、進路が本当に様々で、
美術大学に行ったり、京都ならではの伝統工芸の会社や、
デザイン研究所、メーカーに入る人もいましたが、

 

入ってからも自分を高めたくて転職したり、
模索する人もたくさんいました。

 

この歳になってみんなの消息を聞くと、
ずっと同じ仕事を極めている人もいれば、

 

おお、板前さんに!とか、
お店のオーナーになったんだ!とか、
ヨガのインストラクターなんだ!とか

 

自分と向き合って、見つけたものを磨いている人もいます。

 

本当に色々な人生をそれぞれ頑張っているんだなぁ、
そして、それまでに色々なドラマや葛藤があるんだと思います。

 

携帯のない時代に、たまたま一晩だけ帰った実家に、
打ち合わせもしていないのに半年ぶりにゆう君から電話。

 

その時、ゆう君の後に電話に出たのが今の旦那さんです。

 

これは、何かが待っているのかもしれない、

行かなきゃでしょ!!
と思ってすぐさま東京へ行きました。

 

そして東京で待ち合わせして
待ってくれていたのは
ゆう君じゃなく、今の旦那さんでした。

 

それからは東京と大阪を行ったり来たりしていましたが、
そのうち東京に引っ越しました。

 

池袋から北に少し外れた、

藤子不二雄が住んでいた
トキワ荘もあったという

椎名町という場所に2人で住み始めました。

 

椎名町は舞台のセットみたいにこじんまりしていて、
結構好きな町でした

 

ところが23歳の時に、
住んでいたアパートが突然立ち退きになったのと、

旦那の友達の、あるアドバイスがきっかけで、

 

なんとスペインに行くことになったのです。

 

初めは私はかなり躊躇していました。
英語もまともに話せないのに、スペイン語・・・!?

 

旦那は絵も描けるしスペインへの知識も私よりは多少ある。
(なんてったって、旦那の小学生時の将来の夢→
世界を放浪して生きていきたい笑)

 

私は一体何をすればいいんだろうか?

 

そんな不安から始まった通算4年の怒涛のスペインの生活は、

 

お互いへの信頼と尊敬、
そしてそれぞれのいいところを、
価値に変える極意のようなものを、
私たちに授けてくれたんだと、

帰国後、

 

それぞれが仕事をするようになってから、

だんだんと気付くようになりました。

 

エステへの情熱、子供を持つ希望

 

スペインからの帰国後、

私は母と同じ、手で人を喜ばせる仕事につきたいと思い、
大手のエステティックの会社に、正社員として入りました。

 

3年スタッフとして、
5年店長として、計8年間勤めましたが、
本当に、
かなりいろんな意味で鍛えてもらったと思います。

 

良くも悪くも「言いたいことは口に出す」
のが普通だったスペインから、
「おもんぱかる」のが重視の日本。

 

すぐ上司のカンに触ることを言うので、
【地雷踏みのキヨ】
と呼ばれていました・・・^^;

 

そんな私は最初、
やはりエステの技術にのめり込みました。

 

もともと自分の脚が太くてむくみやすいことを
すごく気にしていたので、

脂肪燃焼の仕組みや新陳代謝、
基礎代謝など、

体のことを勉強するのもすごく楽しかったし
役に立ちました。

 

ある時、

ある新しいメソッドがお店のテクニックに導入されたんですが、

 

そのコンセプト

【本来あるべき骨格と、筋肉の位置に戻す】

と言うところに、ものすごい衝撃を受けました。

 

今から18年前くらい前ですね。なつかしいわぁ・・・

 

そこから、筋肉の位置、骨、(主に関節)
リンパの関係を意識して、お客様に施術するようになりました。

 

私のリンパマッサージの原点です。

 

手技一辺倒だった私ですが、
お客様の信用度が上がるとともに、
役職を任されるようになりました。

 

一時期たまたまお店のメンバーが
とてもバランスの良い時期があり、
お客様が増えるのでお店も盛り上がりました。

 

そして、

チームワーク最強店舗になると思いきや、
5人メンバーのうち
3人が他店舗へ店長として引き抜かれていき、

愕然としたこともありました ><;

 

そんな風に楽しく厳しく仕事をしながらも、
30代に入ってからは、旦那さんと(子どもができたらいいね)と話していました。

 

ですが、私は体質的に受精はするけれど、
着床しにくい【着床障害】らしく、2回化学流産しています。
 

化学流産ってなあに?子宮ベッドメイキング   の記事はコチラ

 

なので、34歳の時に上司に相談(と言うか直談判)し、
店長の役職からチーフにおろしてもらいました。

 

ストレスなく、今でいう妊活をさせてもらい、
ほんの数ヶ月かで授かることができました。

 

しっかり心音が聞こえた時点で上司に報告すると、翌日の退職が許可されました。

 

この辺の対応の早さは、
さすが女性ばかりで構成されている会社だなぁ、と思いました。

 

希望によって、育休扱いになる月まで元気に働くスタッフもいれば、
私のように大事にしたほうが良いケースでは、潔く対応してくれる。

 

この幅広い対応をどこの会社もしてくださるようなら、
少子化も防げるのではと思います。

 

新米妊婦になった時は、
しばらくこわごわ生活していましたが、

つわりもほとんどなく、
白菜が異常に食べたくなったくらいで
すこぶる健康な生活を送りました。

 

出産の前の日にも、

実家からきてくれた母と旦那さんで、
歩いて堤防まで行って魚を釣ったり、

梅おかかおにぎりを食べたのを覚えています。
お腹の写真もよく撮ってもらったなぁ〜

 

赤ちゃんとわたし

 

直前まで歩き倒していたおかげで、
朝6時5分に産婦人科に入って、おぎゃあと生まれてきたのは8時32分。

2時間半も掛かっていない超ハイスピード出産でした。

 

その代わり痛さは・・・半端なかったです!!

 

出てきた時、
首だけ出た時点で赤ちゃんが休憩した瞬間があって、
まだ泣いてもいなかったから本当に焦りましたね。

 

とても頼りになる助産師さんが、

「大丈夫よ、そのまま少しいきんであげたら出てくるよ〜!」

言ってくれたので安心しました。

言われた通りにすると、すぐに、するん!と出てきました。

 

先生が,

長い綿棒のようなもので喉をこちょこちょしたら、
ぎこちない声で「みー!」と泣いたので、

あー良かったー

と思いました。

気がつくと 立ち会ってくれていた旦那さんと母が、
すごい勢いで泣いていました。

 

2474kgの細い赤ちゃんでしたが、食欲旺盛な子だったので、
すくすく大きくなり、今ではわたしを追い越さんばかりに絶賛成長中です(o^^o)

 

キヨのツボ

 

このサイトのタイトルとお店の名前

【自然派癒し処 キヨのツボ】は、

この子が2歳になった時くらいから、

自分の資格と手技が使える仕事をしたいと思い、
細々と口コミのお客様だけで始めました。

 

エステ勤務時代は、
美容の観点から健康を考えることがほとんどでしたが、
今は色々な体の仕組みが分かってきているので、
わたしも 日々勉強しながら、
滞りのない心身を作るお手伝い、
身体を引き締めるお手伝いができたら
最高だ!と思っています。

 

これが、わたしの今までの全貌です。

 

長い長い文章を読んで頂いて、
本当にありがとうございました!

 

まだまだ長くなりそうだったので、
所々、リンクで別の記事にしています。

時間のあるときに読んで見てくださいね〜)^o^(

 

そして、

キヨのツボに実際に来られなくても、
このサイトに来ることで
心が晴れたり癒されたり、

視点が変わって、
前がひらけて行くような感覚を持ってもらえることが、

 

わたしの至上の喜びでございます。

 

絶対に幸せになれるのです。 わたしが、です笑

 

いつでもお待ちしております!

 

キヨのツボ

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